ダメな奴と運動会。

健常者視点だと僕はダメな奴に見えるらしい。

今の指導教授や周りの学生からは少なくとも、ダメな奴に見えてるのだろうと思う。

例えば、運動会で、足の速い子と遅い子で、どっちも一生懸命走ったとする。

当然、遅い子のほうが負けることになる。

しかし、運動会では、遅いからといって、早い子と比較してダメな奴とはならない。

それは、一生懸命走ってるのが周りから見えるから、つまり、努力が可視化されているから。

例え、能力的に劣っていても、その人なりに精一杯努力していれば非難されることは少ない。

しかし、現実社会では、一生懸命走ってる(仕事や勉強している)のがわからない、見えにくい。

だから、現実社会で出来が悪いと、努力していないと見なされ、(運動会でいうと、「一生懸命やってないから、遅いんだ」と思われ)、かつダメな奴と見なされると思う。

また、運動会と現実社会では、求められているものが違い、性質が異なる。

運動会では、練習の成果も大切であるが、それよりもどれだけ頑張ったか、努力したかを重視する。

しかし、現実社会は、シビアに成果や結果を追求する。努力というプロセスが評価対象ではない。

そういう側面も含めると、現実社会では、スペックが低いというだけで、結果を出せない奴、しかも頑張ってもいない奴と思われる可能性が高い。

またそれに拍車をかけるのが、目に見えない障害である精神病を持っていると、一見健常者に見えてしまうので、余計に頑張っていない人、怠けている人、と思われがちだ。

僕の場合でいえば、健常者として自分がカテゴライズされるか、それとも障害者としてカテゴライズされるか、で話しが変わってくる。

健常者としてカテゴライズされる場合、現時点での僕の能力は、相対的に低いと言わざるを得ない。

しかも、僕自身としては頑張っているつもりで、精一杯やっているにも関わらず、他人の健常者視点では、その頑張りは伝わらない。

むしろ、怠けていると見なされることが多い。

よって、健常者として僕を見る場合、低スペックであり、かつ怠けている人、のように見える。

次に、障害者としてカテゴライズされる場合であるが、この場合は、特に問題はないでしょう。

障害がある者として考慮・配慮される場合、スペックという言い方は変であるが、精神障がい者の中であれば、能力的に普通レベルはあるかなと思う。

しかし、障害者というだけで、やはり差別的な表現ではあるが、現実として健常者より劣後する存在として見られ、社会や会社もそんなに期待しないと考えられる。

偏見を持たれたり、差別的取り扱いを受けることもあるかもしれない。

それでも、健常者より低い能力であっても、障がい者の中では、相対的に能力が高いことが当然ありうるので、そのコミュニティ内では生きやすかったりするのかもしれない。

また、障害者であることを知られていれば、理解されやすいし頑張っている部分も見えやすくなると思う。

つまり、障害者として僕を見る場合、そこそこ能力があり、かつ、頑張っている人、のように見えるはずである。

健常者として生きるか、障害者として生きるか。

病気のことをクローズのままで生きていくのか、それともオープンにして生きていくのかとほぼ同義であるが、上述のことを踏まえると、障害者として生きていくほうが、他人からは良い評価が与えられるでしょう。

少なくとも、ダメな奴とは思われないでしょう。

しかし、他人の評価だけでなく、経済的な問題や未だに残る差別や偏見と向き合っていかないといけなくなることを考えると、僕は簡単には答えは出せない。

最近は、そんなことを考えている。

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